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ヨンジン・テンジン・ナムダク・リンポチェ

 1926年東チベットのカム地方、キョンボ・カルの著名なタンカ師の家系に生まれる。幼年時代にタンカ創作を学んだ後、1945年中央チベットにあるボン教僧院ユンドゥリンでボン教哲学の勉強をはじめた。1945年から1950年まで彼のラマと共に隠者のような生活を送り修行を積む。1950年に彼はボン教の総本山メンリ僧院に移り、1953年この僧院でゲシェの学位を取得した。

 

 

 1953年から1957年までずっとメンリ僧院で首位教授(ロポン)を勤めた後、1957年この職を引退し1960年までずっと彼隠遁生活を送っていた。1959年3月10日に起きた共産党主義中国に対するラサ暴動の後、1960年インドへの亡命の途中彼は中国人兵士によって撃たれ傷を負い、10ヵ月の間中国の牢獄に投獄された。そのご、ムスタン公国を通ってネパールにたどり着いた。

 

 

 1961年カトマンズにいる間に、ロポン・リンポチェはその著名な英国人チベット学者デヴィット・スネルグローブの薦めでロンドンに渡り、ロンドン大学とケンブリッジ大学に在勤した。 チベット本土では壊滅的な破壊を受けたボン教の伝統を守るために、資金を集めインド、ヒマーチャル・プラデッシュ州の中にあるソラン近郊のドランジで未開発の森林の土地の一画を購入した。その土地にメンリ僧院を再建する事業に着手するとインド各地に散らばっていたボン教徒の難民たちが次第にドランジに集まり、この地がボン教の新たな出発地点となった。彼の指導のもと若いボン教徒の教育が始まり、1986年にはゲシェの学位を授ける者が育つまでになった。

 

 

 近年ロポン・リンポチェはネパールのカトマンズにあるスワヤンブナート(スワヤンブナートはボン教の聖地でもあります。)の近くにもうひとつのポン教僧院を創立し、2001年この僧院からもゲシェを輩出することが実現した。

 

 

 その後もロポン・リンポチェは欧米の各地を中心に出向かれ、西洋人にたいして精力的にゾクチェンやボン教文化について説いて回られました。特に1991年にはニューヨークで開かれたダライ・ラマのカーラチャクラ灌頂の催しの席に招かれ、ここでロポン・リンポチェは「こころの本性」についての講演を行った。この時ダライ・ラマによってチベットのもうひとつの宗教として公にボン教が認められた。 近年はネパールの僧院で若い弟子たちの指導に献身しつつ、欧米でも積極的に教えを与えている。

(『智恵のエッセンス』より)

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